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4月
27
2013
赤松兼次 氏
Posted by 管理者 on 27 4月 2013 / 0 Comment


赤松兼次 氏

ユメ保育園 園長 赤松兼次

1965年大阪府堺市で生まれる
現在は、大阪府高槻市在住

幼児期は、幼稚園に通っていた。園の裏側に芋ほりをおこなった楽しい記憶が残っている。
また、帰りに運動場で整列し、前に園の旗を一番に取りにくれば持って帰れる。
一度だけ、一番になり旗を持って帰ったことがある。
このように、幼児期の体験は40年程経ってからも記憶から消えていない。

小学校時代は、野球が好きで、学校が終わるとすぐに、公園で友達と毎日、野球をしていた。
小学校3年生の時、初めて親に甲子園球場に連れていってもらった。(阪神タイガ-ス対ヤクルトスワロ-ズ)
ここから、阪神タイガースファンになった。

中学時代は、野球部に所属していた。1つ上の学年は、大阪府夏の大会で準優勝をした。
今と違って、水が飲めない時代であった。夏場は、倒れる寸前まで限界がきたこともある。
当時、トイレの横に水道があった。臭い匂いで、普段では、絶対に飲めない水である。
しかし、それを隠れて水を飲んでいた。
この時代は、厳しい指導も日常茶飯事であった。
この中学生時代は、このような経験があり根性野球であった。

高校時代は、釣りが大好きになった。
毎週、釣りに出かけていた。
大人が所属する、釣りクラブに所属していた。ある大会で優勝して、釣竿をもらった。
また、松山千春さんの歌声に憧れて、ファンになる。

大学時代は、アートに目覚め、年に4,5枚油絵を描いていた。キャンバスも自分で張っていた。現在、実家に1枚だけ絵が飾られている。(鶴の絵)
教職課程を受講し、教師を目指していた。
大学4年生の夏に大阪府中学校の採用試験を受験するが不合格となる。
そのあと、一般企業に内定し、入社することになる。

社会人時代、セ-ルスエンジンアとして、技術的な営業の仕事をしていた。いろいろな企業と取引があった為、他社の良いところ、悪いところが見えて勉強になった。
この時代が、バブルの時である。どこの会社も景気のいい時代であった。
給料もよく、安定した会社であったが、教師になる夢が捨てられず、退職した。
中学校の常勤講師として働くことになった。身分が不安定な状態であったが、教師になる夢が叶った。
教師をしながら、採用試験の勉強もしていた。教職専門分野の勉強で、予備校に通ってもいた。教員採用試験の一次試験は、一般教養と教職専門試験である。教職の専門分野に関しては自信があった。一次試験に合格し4人まで残ったが、二次試験、専門分野、討論で不採用になる。
その後、高校の採用試験に合格し、教諭となった。
校務分掌は、長きにわたり、生徒指導をおこなってきた。10年間、毎日、校門指導をおこなっていた。
19年間、高校教師をおこない、日々の生徒を見ている中で、ひもを解けば、幼児教育の大切さに気づき、保育園開園を決意した。
また、テレビ「エチカの鏡」で、鹿児島県通山保育園が紹介された。この映像を見て、凄いと感動した。
鹿児島県の横峯吉文理事長が運営する3園の保育園にも2回見学に行き、この目で凄さを確認してきた。
2011年10月1日に、高槻市に『ユメ保育園』(YYプロジェクト ヨコミネ式教育法)を開園した。
私の夢は、保育園を開園することではなく、園児が大人になった時、『素直にすくすく、それでいて礼儀正しく、優しく温かい人に育つように』成長した姿を見るのが夢である。

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